初めて可能
われ等が宗教を論ずるのは、宗教がわれ等と汝等との生活に、直接の関係を及ぼすからである。人間――われ等の観る所によれば、人間は矢張り不滅の霊魂の所有者であるが――の地上生活は、言(い)わば第一期の初等教育で、ここで簡単なる任務を遂行すべく教えられ、一層進歩せる死後の世界の高等教育に対する準備を整える。彼は幾つかの不可犯の法則によりて支配せられる。若(も)しこれを犯せば、彼を見舞うものは不幸であり、損害であり、若(も)し又之(これ)を守れば、彼に訪るるものは進歩であり、満足である。
爰(ここ)でくれぐれも銘記せねばならぬは、地上の人間が、曾(かつ)て彼と同じ道を歩める、他界の居住者達の指導下にあることである。それ等の指導者達は、神命によりて、彼を守護すべく特派されているのであるが、その指導に服すると否とは、人間の自由である。人間の内には、常に真理の指示を誤らざる一つの規準が、天賦的に備って居るのであるが、これを無視した時に、いかなる指導者も施すに術はない。脱線と堕落とが伴って来る。すべて罪は、それ自身に懲罰を齎(もた)らすのであって、外部的の懲罰を必要としない。
兎に角地上の生命は、大なる生命の一断片である。生前の行為と、その行為に伴う結果とは、肉体の死後に於(おい)ても依然として残存する。故意に犯せる罪悪の流れは、どこまで行っても、因果の筋道を辿りて消ゆることがない。これは悲哀と恥辱とを以(もっ)て償わねばならない。
これと同様に、善行の結果も永遠不滅である。清き魂の赴く所には、常に良き環境が待ち構えて居(お)り、十重二十重にその一挙一動を助けてくれる。
すでに述べた通り、生命は不可分の単一的実在である。それは例外なしに、上へ上へと前進の一路を辿り、そしてそれは例外なしに、永遠不動の法則によりて支配せられる。何人も寵児として特別の待遇に浴することなく、又何人も不可抗力の誤謬(ごびゅう)の為めに、無慈悲な刑罰に服することはない。永遠の正義は、永遠の愛と相関的である。慈悲は神的属性ではない。そうしたものは無用である。何となれば、慈悲は刑罰の赦免を必要とするが、刑罰の赦免は、犯せる罪の一切の結果が除き去られた暁に於(おい)てのみ、初めて可能だからである。憐れみは神に近いが、慈悲は寧(むし)ろ人間に近い。
