迷妄漢
で、われ等がこの際諸子に注意を促したいことは、諸子が神の啓示を判断するに当りては、須(すべか)らく自分自身に備われる智慧と知識との光に依(たよ)り、断じて経典学者の指示に依(たよ)ってはならないことである。啓示全体に漲(みなぎ)る所の精神を汲むのはよいが、一字一句の未節に拘泥することは、間違の基である。従ってわれ等の教訓を批判するに当りても、それが果して或(あ)る特殊の時代に、或(あ)る特殊の人物によりて述べられたる教訓と一々符合するか否かの穿鑿(せんさく)は無用である。われ等の教訓が、果して諸子の精神的欲求に適合するか、否か、それが果して諸子の心境の開拓に寄与する所あるか、否かによって去就を決すればよいのである。
換言すれば、われ等の教訓が、正しき理性の判断に堪(た)えるか? 精神(こころ)の糧(かて)として何(ど)れ丈の価値を有するか?――われ等の教訓の存在理由は、これを以(もっ)て決定すべきである。
正規の教会で教うるように、諸子に臣従を強うるところの神は、果して諸子の崇拝の対象たるに足りるか? その神は、自己の独子の犠牲によりて、初めてその怒りを解き、お気に入りの少数者のみを天国に導き入れて、未来永劫、自己に対する讃美歌を唄わせて、満足の意を表している神ではないか! そしてその他の人類には、天国入りの許可証を与えず、悉(ことごと)くこれを地獄に追いやりて、言語に絶した苦痛を、永久に嘗めさせているというではないか。
教会は教える。神の信仰に入りさえすれば、いかなる堕落漢たりとも、立所にその罪を許されて天国に入り、神の御前に奉侍(ほうじ)することができると。若(も)しもそれが果して事実なりとせば、天国という所は、高潔無比の善人と、極悪無道の悪人とが、互に膝を交えて雑居生活を営む、不思議千万な場所ではないか?
われ等の教うる神は、断じてそんなものではない。道理が戦慄(みぶるい)して逃げ出し、人情が呆れて顔を反(そむ)けるような、そんな奇怪な神の存在をわれ等は知らない。それは人間の迷信が造り上げた神で、実際には存在しない。しかもかかる神を空想した人物は、よほどの堕落漢、よほどの野蛮人、よほどの迷妄漢であったに相違ない。人類として信仰の革命が、急を要する所以(ゆえん)である。
